虫の知らせ(短編小説の集い)

プウウウゥゥゥウゥン――。

耳障りな高音。回転椅子をくるりと回して、振り返る。

本棚の中段あたりを黒い塊が飛んでいた。

部屋の主、裕也は不機嫌だ。血走った目でギロリと飛虫を睨みつけると、素早く両側から手のひらで挟み潰した。

仕留めたっ!と思ったのだが、虫は手からすり抜ける。裕也の目の前で八の字を描いて舞い、プウウウゥゥゥウゥンと不快な羽音を再び奏でる。

虫に向かってバカヤローと叫びたい気分だった。が、2LDKのアパートは見た目に反して壁が薄い。ちょっとした物音で苦情が届く。大声を出そうものなら、ものの数秒で大家さんがやってきて、玄関のベルを鳴らすだろう。

裕也は力なく溜め息をつく。ベッドに倒れ込み、抱きまくらに顔を沈めた。《魔法幼女バブミ☆ママカ》の等身大抱きまくらである。

尊い微笑を湛えた幼い少女の体躯が、漆黒の闇で裕也を包み込む。いつもよりも抱きまくらの包容力が増している気がする。彼の心は《バブみ》の境地でひとときの安寧を取り戻した。

気がつけば眠りに落ちてしまいそうな安らかな時間、それを耳元を通り抜ける例の虫の羽音が台無しにした。裕也はまた、ふつふつと苛立ちを湧き起こす。

なにも彼とて、常日頃から神経質にイライラしているわけではない。

今日は、特別なのだ。

壁にかけられたカレンダー。九月三十日に花丸印が描かれている。

本当ならば、理香子との婚約記念日になるはずだった。同居中の恋人の姿は、今はない。

二日前に理香子とはつまらないこと(もっとも裕也にとってはつまらないことではないし、彼は心底頭に来ていたのだが)で喧嘩をした。怒った理香子は、友人と一緒に岐阜県へ旅行に出かけてしまったのだ。

岐阜には、大ヒットしたアニメ映画の聖地がある。理香子とは映画デートをしたその日に「今度、一緒に聖地巡礼しようね」と約束をした。裕也はギリリと歯を噛み締めて(なのに俺を置いて行きやがって……)と呪詛のような言葉を心のなかで吐く。

プウウウゥゥゥウゥン――。

虫が飛ぶ。

ベッドから飛び起き、素早く叩く。また逃げられてしまった。虫は裕也の姿など気にも留めないふうに、部屋のなかを我が物顔で悠々と飛び回っている。

もともと理香子は、裕也にはもったいない恋人だ。不釣り合いなのは自覚している。

両親に理香子を紹介したときに「まるで美女と野獣ね」とまで母に言われた(じつの息子になんて毒舌な、と裕也は顔をしかめたが)。

たしかに、自分は決してイケメンではない。ダイエットをしているが、今でもカビゴンのようなスタイルに変わりはない。

そのうえ《アニオタ》《ロリコン》《萌えグッズコレクター》という非モテ要素を凝縮させた男が、裕也である。旧友の誰もが、彼に恋人ができるなどとは思っていなかった。しかも、理香子はオタクではなく、どちらかといえばフェイスブックにスイーツの写真を載せることを生き甲斐としているような、キラキラ系リア充女子なのだ。

プウウウゥゥゥウゥン――。

虫が裕也の鼻先で踊っている。

馬鹿にしやがってと裕也は大きな手のひらを振り下ろす。

直撃は免れない、はずだが。

虫は手と手の間を通り抜けて、先程と同じく(へへん、そんなマヌケな攻撃にゃかすりもしませんぜ、と挑発せんばかりに)くるくると気ままに飛び回る。

ふとした違和感が、裕也の思考の端に浮かんだ。この虫、手のひらを《すり抜け》なかったか? 気のせいか、そんな感触がしたのだ。

黒くて小さい羽虫は、裕也の目先で降下を始める。飛翔先は《魔法幼女バブミ☆ママカ》の等身大抱きまくら。幼女の口元は優しく綻び、迫ってくる虫をバブみの境地で迎え入れようとしていた。

おのれクソムシめ! そうはさせるか!!

裕也は虫の到着地点を先回りして、ママカの前に手のひらで壁を作る。(迂回するようであればその隙を突いて確実に仕留めてやる!!)思惑はしかし、外れた。

虫は進路を変えることなく、一直線に手のひらへと突っ込んでいく。

手が虫を捉えようとしたそのとき――。

「消え……た……!?」

手のひらのなかに、吸い込まれたみたいに。

ふっ、と姿が消える。消えたのに、羽音は継続している。

唐突に、虫は《手の甲》から姿を現した。虫は抱きまくらに着地する寸前で再び高度を上げて、裕也の頭上を優雅に舞った。

(待て待て待て、いま、たしかにすり抜けたよな……)

ぞっと背筋に冷たいものが走る。裕也は考える。もしかして飛蚊症ではないか。実際に虫が飛んでいるのではなく、目のなかのゴミだか何だかが網膜に映って、虫のように見えているのだとしたら。

プウウウゥゥゥウゥン――。

気の抜ける羽音がしかし、裕也の仮説を打ち砕く。さすがに飛蚊症と耳鳴りがシンクロ現象を起こして虫の幻影を作り出すなどとは、想像したくもない。

結局のところ血を吸うでも刺すでもなく、この虫は何がやりたいのか、今度は裕也を目掛けて一直線に飛びかかってきた。

ちょうど腹の出っ張った部分に、虫が速度を落とさず突進する。

「あっ」と今度は、さすがの裕也も悲鳴を上げた。

虫がシャツをすり抜けて、腹の中へと吸い込まれるように、消えた。

間違いなく、この目で見た。

虫の幽霊? あるいは自分が《闇の力》とやらに覚醒したのか? 混乱。

裕也と謎の虫との戦いが開始されてから、二十分が経とうとした頃、固定電話の着信音が鳴った。すぐに留守応答へと切り替わる。

『裕くん、まだ怒ってる? そーゆう子どもっぽいとこ好きじゃない』

理香子の声だ。

相変わらず反省する様子がない。だから話すのが嫌で、留守電にしていた。誰が電話に出るものか、泣いて謝っても許してやらんぞ、と裕也は鼻を鳴らす。

『今ね、岐阜のHogeHogeホテル。朝風呂良かった。露天風呂から槍ヶ岳が見えるの』

それから理香子は、昨日はディナーで飛騨牛のステーキを食べただとか、今日は昼からスイーツ店巡りをするだとか、美味しそうな話をまくし立てた。裕也は口の端からよだれを垂らし、顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。

「おのれ、俺はこんな姑息な話術に屈したりはしないぞ……じゅるり」

留守電の録音時間が残り十秒を切ろうとしたとき、理香子の声音が少し低くなった。

『あーあ。せっかく二人分予約してたのに、もったいない』

裕也は一瞬首を傾げる。

どういうことだ。理香子は友達を連れて岐阜に行ったのではなかったのか。さっきの物言いだと、まるで彼女が今、ひとりでいるような。

『そういえば、番組表見たんだけど、こっちは今日放送があるみたい。えーっと、魔法使いバカボンのママだっけ。見たかったんでしょ、最終話』

《魔法幼女バブミ☆ママカ》だ!! と心のなかでツッコミを入れながら、裕也は金槌で後頭部を殴られたかのような衝撃を受けていた。

そうだ、すっかり忘れていた。地方局だと放送日がズレるから、東京で最終話を見逃したとしても、岐阜に今から行けば、まだチャンスはあるのだ。

『待ってる』

理香子が最後に言い残し、留守電は切れた。

裕也は受話器の前で頭を抱えて、膝から床に転げ落ちた。

「ぐおおおおおおおおおおお」

後悔する、反省する、懺悔する。とってもつまらない理由で、婚約予定日の今日という日を台無しにしてしまったことを。

喧嘩の発端は、裕也が録画予約をしていた《魔法幼女バブミ☆ママカ》の最終話をうっかり理香子が消したこと。彼女は、裕也の愛するアニメ番組がそのなかに入っているとは知らずに、ジャヌーズのライブ番組で上書き消去してしまったのだ。

わざとじゃないのは知っていたし、マジギレした自分が大人げない。

互いに抱きまくらを投げあって大喧嘩していたあの晩が、今となっては恥ずかしくて仕方がない。裕也は自分の怒りが、別の熱いものへと変換されてゆくのを感じた。

理香子に謝らなければ。そしてすぐに自分も岐阜へ向かおう。

裕也は受話器へ手を伸ばす。

手は、伸ばした。

伸びた手はたしかに、受話器を掴もうとした。

が――。

「うそ……だろ……」

目の前の現実が信じられない。

掴めない。

電話機が自分の手をすり抜けてしまうのだ。

まるで、3Dホログラム投影されたアニメキャラのように、実体が感じられない。

「ははは、悪い夢だぜ」

裕也はよろけて、食卓の上に手をついてもたれ掛かろうとした。ところがテーブルもまた彼をすり抜けてしまう。裕也は床に尻餅をついた。にもかかわらず、お尻は痛くない。何の感覚も、伝わってこない。

彼は悟る。

虫や、電話機や、テーブルが自分をすり抜けているのではない。自分が、物体をすり抜けているのだ。心臓が吹き飛びそうなくらい驚いているのに、胸の鼓動がまったく聞こえない。

まるで、それは。

プウウウゥゥゥウゥン――。

虫が飛ぶ。裕也のまわりをくるくると。

「理香子のところに行かなきゃ」

裕也は全身に汗を浮かべ(もはやその汗が現実のものか分からない)、震える足を引きずって(もはやその足が現実のものか分からない)、戸を開けようとして(戸は開かない。だから彼はあきらめて、戸をすり抜ける)、玄関へと向かう。

そこで、見たくない真実を見た。

玄関では《裕也》が後頭部から血を流して、うつ伏せに倒れている。すぐそばにはビデオデッキが逆さまに落ちている。

「俺が、死んでる」

今朝の記憶が、おぼろげながらよみがえる。朝、裕也はママカ最終話を見逃したショックから気を逸らすために、魔法少女カリーのビデオでも見ようかと思いついたのだ。

玄関のステンレス棚の一番上に置いてあるビデオデッキを取ろうとして、バランスを崩した。落下するビデオデッキ。慌てて見上げようとする間もなく、後頭部に鈍い衝撃を感じ、それが記憶の最後となった。

「あああああああああああああ」

咆哮する。声が部屋中にこだまするのに、騒音にうるさい大家さんはやってこない。自分はもう、この世の存在ではないというのか。

「理香子のところに行かなきゃ」

裕也はうわ言のように呟いて、玄関のドアをすり抜けようとした。

が、ドアに触れる寸前で弾き返される。

ドアノブをこじ開けようとしても、体当たりをしても、身体が触れることさえ叶わない。見えないバリアに吹っ飛ばされる。ドアが駄目なら壁や床をすり抜ければ、と思ってチャレンジするも、同じく失敗に終わる。どう頑張っても、部屋から出られない。

「つまり、俺は地縛霊になったってことか」

後悔がありすぎる。

ママカの最終話だってまだ見ていない。十月からの秋アニメだって楽しみにしているのがたくさんある。仕事だってようやく昇進が決まったばかり。結婚式の準備金だってコツコツと貯めてきたのに。

理香子が待っている。こんな情けない自分のことをひとりで待ってくれている。

プウウウゥゥゥウゥン――。

虫が飛ぶ。裕也のまわりをくるくると。

「なんださっきからしつこく俺のことを」つきまとって、と言いかけて、裕也ははっと息を呑んだ。自分が幽霊になったのだとして、どうしてこの虫には自分の姿が見えているのだ。

裕也は妖怪物アニメで見たことがあった。死者の魂を運ぶ、虫の妖かしを。

「頼む、俺を理香子のところに連れて行ってくれ。理香子に、伝えなくちゃいけないことがあるんだ」

虫が裕也の頭のうえに止まる。

瞬間、裕也の身体は透けてゆき、彼の意識も形を失ってゆく。

(理香子、俺は君を愛している)

言霊を乗せて、虫は飛ぶ。

そして玄関のドアに、吸い込まれるように消えていった。

――――――

――――

――

目を開けると真っ白な天井だった。

「俺は、生きて……」

「ばかっ。大家さんが来てくれるのがあと一歩遅かったら、ほんとに死んでたんだから」

理香子が目尻に涙を浮かべて、裕也に抱きつく。

留守電に伝言を残したあと、理香子は急に得体の知れない胸騒ぎに襲われた。だから大家さんに部屋の様子を見てくれるよう、電話で頼み込んだのだ。その判断が幸いして、彼は死の淵で一命を取り留めた。

「なんだか、虫の知らせがしたの」

理香子の泣きながら微笑むその笑顔が、とても愛おしい。

裕也は真剣な眼差しを彼女に向ける。

そして、口を開いた。

「理香子、伝えたいことがあるんだ」

生きていなければ、伝えられないことを。

(了)

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当記事の執筆者
五条ダン

研究対象は《ナメクジオバケ》。「現実は甘くない。だからこそ甘さが必要である」をモットーとする。修辞技法(レトリック)の分析を得意とし、文体に重きを置く創作スタイルを好む。しかし筆速はナメクジの歩みのように遅い。

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